2024年3月7日木曜日

「海外の旅」連載「足の向くまま 第2回」写真集

 1971年「海外の旅」10月号 マスレジャー研究所発行

  足の向くまま 第2回 汽車に揺られてソ連を通過

ハバロフスク  ~(シベリア鉄道)~ レニングラード ~(鉄道)~ ヘルシンキ


◎◎ 今回は前回2024年3月1日のブログで紹介できなかった写真を公開 ◎◎

1971年3月29日 いよいよシベリア鉄道
ハバロフスク→モスクワ 8,531km 135時間40分
3月29日~4月4日 6泊7日(時差の関係で計算が?)

3月30日 シベリア風景


列車通路

コンパートメント内でカードに興じる乗客



ユタ駅 売店

結構長時間停車するのでブルブラしたり写真を撮ったり

ユタ駅で食料品の買い出し

ジャガイモを買うにも値段の交渉が必要

スチュワーデス

4月2日 駅内カフェテリア
ノボシビルスク駅で 私

ノボシビルスク駅

4月4日 モスクワ市内バス観光
モスクワに2泊予定だったが突然一方的に
キャンセルされ、替わりにレニングラード
2泊になった。お詫びの意味かモスクワ市内
半日バス観光を提供された。


ウクライナホテル

モスクワ大学、車窓見学

プーシキン広場?


レーニン丘からモスクワ市を望む

モスクワ地下鉄構内

クレムリン 赤の広場
          
4月4日 モスクワからレニングラード行き切符の表紙 

上: 座席指定カード
下: 乗車券と寝台車券
  運賃15.20ルーブル(\6,080)
  予約料0.80ルーブル(¥320)
4月5日 レニングラードに到着
(現在はサンクトペテルブルグ)
街角の売店の行列
夜は??劇場でバレエ鑑賞

4月6日 観光バス半日観光
アストリアホテル前でイサーク寺院と子供たち
(宿泊地では必ず1回の観光が付いてくる。
それも、日本語通訳ガイド付きで。)

アストリアホテル(歴史書に出てくる
超一流ホテル。現在も5つ星)に2泊。
貧乏旅行の私だがその頃は安いホテルを、
などと指定できなかった。

4月7日 エルミタージュ美術館

エルミタージュ美術館内
初めて西洋の美術館を見たせいかもしれないが、
その派手さ・豪華さ・大きさにビックリ。
床も壁も天井も柱もすべて美術品。

ネフスキー通り

レーニン像をバックに。
後ろの建物は地下鉄のフィンランド駅。
フィンランド駅とは向こうの言い方で、
フィンランド行きの電車が出る駅の事。

街で知り合った学生が自分の学生寮に招待して
くれた。今思えば、これも外国人の監視活動の
一環だったかも。


寒空の下、裸で日光浴。
泳いでいる人もいた。


2024年3月1日金曜日

「海外の旅」連載「足の向くまま 第2回」

 1971年「海外の旅」10月号 マスレジャー研究所発行

  足の向くまま 第2回 汽車に揺られてソ連を通過

ハバロフスク  ~(シベリア鉄道)~ レニングラード ~(鉄道)~ ヘルシンキ


下の画像をクリックすると新しいウィンドウで、この旅行誌に掲載された私の旅行記が読めます。私が今読み返すと、ところどころ意味不明のところがあったりしますが、ご容赦ください。



写真をたくさん撮りましたが雑誌紙面の限りがあり掲載されたものはほんの少しです。それらの写真は次回に写真集として見ていただきたいと思っています。


順次公開予定の、「海外の旅」誌「足の向くまま」の連載内容 - - -
下の青字をクリックすると新しいウィンドウで記事のページが開きます。
       
横浜~(船)~ナホトカ~(極東鉄道)~ハバロフスク

1971年10月号 汽車に揺られてソ連を通過 (今回)
ハバロフスク~(シベリア鉄道)~レニングラード~(鉄道)~ヘルシンキ
       
 1971年11月号 ヒッチで白夜の国へ
ヘルシンキ~(ヒッチハイク)~ヨーロッパの最北端・ノースケープ目指し
        
1971年12月号 北国から暖かい南の国へ
ヨーロッパ最北端の島~(ユーレイルパスを使って鉄道で)~スペイン
        
1972年 1月号 わがイタリア万歳!
イタリアあちこち、ナポリ・リミニ・トリエステ・ベネチア・・・・

1972年 2月号 闘牛場のファンファーレ
 スペイン・オランダ・ドイツ
        
1972年 3月号 パリにパリジェンヌに・・・そしてボク
オーストリア・スイス・パリ・ベルリン
        
1972年 4月号 スペイン番長 蚤の市に出店
マドリッドのユースホステルで番長を務め、そのあとアフリカへ
        
1972年 5月号 灯火管制、空港閉鎖、脱出
ギリシャ・トルコ・イラン・戦下のインド・そしてついに帰国

2024年2月28日水曜日

「海外の旅」連載「足の向くまま 第1回」写真集

 1971年「海外の旅」9月号 マスレジャー研究所発行

  足の向くまま 第1回 本のとおりのシベリアルート

横浜 ~(船)~ ナホトカ ~(極東鉄道)~ ハバロフスク


◎◎ 今回は前回2024年2月25日のブログで紹介できなかった写真を公開 ◎◎

私の昔のアルバムの写真はかなり色褪せていたので、元のフィルムから画像を取り出しました。ただ、そのフィルムもかなり色褪せていたので色補正をしましたが、技術不足で満足のいく結果が出ません。

旅行中の使用カメラは35㎜フルサイズではなく、オリンパスPEN-FT というハーフサイズの往年の名機です。モノクロの写真もいくつかありますが、ヤシカATORON ELECTRO という超ミニサイズのカメラで撮ったもので、言わばスパイカメラです。別に、もちろんスパイするつもりで携帯したわけではありません。そんな事で捕まったりでもしたらエライことになります。ソ連の事ですから。

右列の最上段がもっとも一般的な35㎜フィルム
その下が一時流行ったオリンパスPEN・FTのハーフサイズ

左列の6列はヤシカATORON ELECTRO
その下のやや緑かかって丸まったものはフィルムが劣化して
  丸まったり割れたもの。50年も経つと中にはこんな事も
その下の紫色のフィルムは???

前置きはこれくらいにして、いよいよ写真を見てください。

1971325 横浜桟橋に着岸したハバロフスク号


いよいよ乗り込み


出国検査

私の荷物はリュックひとつ、当時主流の横長タイプ


チケットカバーだけ残っていて、
挟まれていたチケットは残っていなかった

乗船カード 表(右半分)と裏(左半分)
           
乗船カード 内部
部屋の番号や朝食・昼食・お茶・ディナー
の時刻が書いてある


船内で乗船チェック



見送りの人々


早々とテープが飛ぶ


1人で何十本も買って投げる


現代では見られなくなったテープ投げ
環境汚染防止のため
この風景も今はなくなった、懐かしい!

この写真は地上からだから
どなたかから頂いたものだと思う

船内通路
54時間、2泊3日の船旅が始まった

2段ベッドの4人部屋 ツーリストクラス


ワクワク・ドキドキの出発前


ハバロフスク号甲板


サロンがダンスホールに

日本人でダンスをする人は見掛けなかった

レストラン
フルコースの食事は船賃に含まれてい

3月27日 ナホトカ港遠景

いよいよ港に着岸

ナホトカの両替所
5US$をソ連ルーブルに交換
当時固定レートで
1US$=¥360
1ルーブル=¥400

次はナホトカからハバロフスクまでの列車の旅
列車の指定席カード
裏に6号車36番席と書いてある

鉄道チケット
          
1枚目 乗車券 ナホトカ→ハバロフスク→モスクワ 46.70ルーブル(\18,680)
2枚目 寝台特急券 ハバロフスク→モスクワ 31.50ルーブル(\12,600)
                                     予約手数料       2.50ルーブル (\1,000)
3枚目 寝台特急券 ナホトカ→ハバロフスク    6.20ルーブル (\2,480) 
                                     予約手数料            0.80ルーブル   (\320)
3月27日夕
ナホトカでハバロフスク行きに乗り込み
ナホトカを夜に出発

3月28日 ハバロフスクに昼過ぎ到着

ハバロフスク駅 駅前

ハバロフスク駅をバックに 私

ホテルから外を見る

ツーリストクラス シングルベッド
$10.89 (\3,920) 出発前に日本で支払い
この頃のソ連人の平均月収は100ルーブル(4万円)
と聞いた。ホテル代1泊が月収の10分の1になる。
この頃の日本の大卒初任給は46,400円。

バスでハバロフスク半日市内観光
宿泊費には観光バス代が(強制的に)含まれている
ここハバロフスクには1泊だけ

氷結したアムール川のはるか向こうは中国
周りは雪と氷というのに水泳とは!

翌3月29日 朝 ホテルロビーで談笑
この後すぐにシベリア鉄道に

2024年2月25日日曜日

「海外の旅」連載「足の向くまま 第1回」

1971年「海外の旅」9月号 マスレジャー研究所発行

  足の向くまま 第1回 本のとおりのシベリアルート

横浜 ~(船)~ ナホトカ ~(極東鉄道)~ ハバロフスク


下の画像をクリックすると新しいウィンドウで、この旅行誌に掲載された私の旅行記が読めます。私が今読み返すと、ところどころ意味不明のところがあったりしますが、ご容赦ください。

写真をたくさん撮りましたが雑誌紙面の限りがあり掲載されたものはほんの少しです。それらの写真は次回に写真集として見ていただきたいと思っています。

順次公開予定の、「海外の旅」誌「足の向くまま」の連載内容 - - - 
       
1971年 9月号 本のとおりのシベリアルート(今回)
横浜 ~(船)~ ナホトカ ~(極東鉄道)~ ハバロフスク

1971年10月号 汽車に揺られてソ連を通過
~(シベリア鉄道)~ レニングラード ~(鉄道)~ ヘルシンキ
       
 1971年11月号 ヒッチで白夜の国へ
~(ヒッチハイク)~ ヨーロッパの最北端・ノースケープ目指し
        
1971年12月号 北国から暖かい南の国へ
~(ユーレイルパスを使って鉄道で)~ スペイン
        
1972年 1月号 わがイタリア万歳!
イタリアあちこち、ナポリ・リミニ・トリエステ・ベネチア・・・・

1972年 2月号 闘牛場のファンファーレ
 スペイン・オランダ・ドイツ
        
1972年 3月号 パリにパリジェンヌに・・・そしてボク
オーストリア・スイス・パリ・ベルリン
        
1972年 4月号 スペイン番長 蚤の市に出店
マドリッドのユースホステルで番長を務め、そのあとアフリカへ
        
1972年 5月号 灯火管制、空港閉鎖、脱出
ギリシャ・トルコ・イラン・戦下のインド・そしてついに帰国

2024年2月22日木曜日

「私の世界一周バックパック旅行の旅行記を掲載していただけませんか?」

吹奏(学)部ならぬ吹奏(楽)部でトランペットを吹くために大学に行っていたと言っても過言ではないほど、意識は勉強よりトランペットに向いていた。

おかげで、単位不足で1年ゆっくりせざるを得ない事となったのを機会に1970年、大阪万国博でアルバイトの場を得て貯金をして、翌年に休学して9ヶ月間貧乏旅行を決行。これが初めての海外旅行だった。

出発前に全国紙新聞社4社と旅行雑誌社数社に手紙を書いた。「シベリア経由の世界一周バックパック旅行をするので、旅行記を掲載してもらえませんか?」と。すると新聞社1社と旅行雑誌社、(株)マスレジャー研究所から返事があり、「書いてくれたら載せましょう!」と提案があり、結局旅行雑誌社との話がまとまり連載が決まった。

私はエッセーや小説など何も書いたことがなかったし、話し上手でもなく、話題も持っていなかったので、よくもこんな無茶を売り込んだものだとつくづく思う。

それにも増して、どんな文章が書けるかなんて、何も見ずに旅行雑誌社はよくも採用を決めたものだと思う。当時は海外旅行案内の本や月刊誌などほとんどなかったから、情報不足だったのだろう。

原稿料は400字詰め原稿用紙に1枚1,000円
写真掲載料は無し
連載回数は様子を見ながら........

(株)マスレジャー研究所は海外旅行専門の「海外の旅」と言う月刊誌を発行している東京の会社だ。結局9ヶ月間旅行記を連載紹介していただいた。この会社は今はない。
  
1971年3月に日本発 ~ シベリア鉄道経由 ~ ヨーロッパ ~ 北アフリカ ~ 中近東 ~ インド ~ 東南アジア ~ 1971年12月帰国
 
連載記事の題は「足の向くまま」
連載内容 - - - 
       
1971年 9月号 本のとおりのシベリアルート
横浜 ~(船)~ ナホトカ ~(極東鉄道)~ ハバロフスク

1971年10月号 汽車に揺られてソ連を通過
~(シベリア鉄道)~ レニングラード ~(鉄道)~ ヘルシンキ
       
1971年11月号 ヒッチで白夜の国へ
~(ヒッチハイク)~ ヨーロッパの最北端・ノースケープ目指し
        
1971年12月号 北国から暖かい南の国へ
~(ユーレイルパスを使って鉄道で)~ スペイン
        
1972年 1月号 わがイタリア万歳!
イタリアあちこち、ナポリ・リミニ・トリエステ・ベネチア・・・・

1972年 2月号 闘牛場のファンファーレ
 スペイン・オランダ・ドイツ
        
1972年 3月号 パリにパリジェンヌに・・・そしてボク
オーストリア・スイス・パリ・ベルリン
        
1972年 4月号 スペイン番長 蚤の市に出店
マドリッドのユースホステルで番長を務め、そのあとアフリカへ
        
1972年 5月号 灯火管制、空港閉鎖、脱出
ギリシャ・トルコ・イラン・戦下のインド・そしてついに帰国

次回は「足の向くまま 第1回」です。

2023年12月13日水曜日

 2023年12月13日

歩いて全バス停留所制覇」を今日13日に完了。これの前に「バスで全停留所制覇」を201812月~20202月にやり遂げていて、「歩いて……」をやり始めたのが2020310日の事。その時のことは2020312日のブログに書いている。

歩いて……制覇」は3年半かかった。コロナ禍が始まったのが2020年初頭だったが、それも少し落ち着いている。つまり、歩き回ったのはほとんどコロナ禍の最中だったことになる。この間に路線が新しくできたり変更になったりで、距離数や停留所数が少し変わっているが、最新のルートもすべて歩き終わった。現在のデータは市バスHPによると次の通り。



バスの営業距離 124.24
停留所数 261か所
路線数 24路線
運賃 均一性運賃 大人220
    山間部のみ特別料金
        JR高槻駅北←→二料   640
        JR高槻駅北←→樫田校前 570

ルート完歩の最終日は、上の市バス路線図の黄色枠の中にある中にある「山間部地域」の5停留所。「樫田校前」(この停留所はカウント外)から「二料」までの5つ。


樫田校前から二料までは3km。下の時刻表からわかる通り、水曜日の日中はバスが走っていない。二料まで行っても帰りのバスがない。と言う事は往復6km歩かねばならない。


クマが出る、と注意書きがある。ひと一人歩いていない道路。車は通るが10分に1台程度。これではクマが出て来ても不思議ではない。道路わきに捨ててあったジュースの空き缶を拾って折れた枝の先にくっつけて、道路やガードレールにカンカンとたたきつけ音を出しながら歩く。

大きなユズの木。無数。と言っていいほどの数のユズ(多分ユズ)がなっている。


最終停留所の一つ前は「二料山荘」停留所。この山荘、営業してるのかな?付近には10軒ほどしか家がないような感じ。

二料山荘停留所の時刻表。ほぼ、一日3便。

道端の府県境標識。すぐ向こうは京都府?

終点の「二料」停留所。ざっと見て、30軒ほどの地さな村落。もちろん喫茶店も店もない。すぐUターンして元の道をもどる。
道路標なのだが、何キロ先にあるのかわからない。○○㎞とキロ数を書いてほしいな。

この日の総歩行数は13,946歩、良い運動になった。これで高槻市バス走行全ルート124.24kmを歩行完遂。

四国88か所やスペインのサンチャゴ・デ・コンポステラ詣での1,000㎞以上のルートに比べるべくもないが、小さいながらも満足感がある。