2011年2月8日火曜日

スペイン語留学開始

2011.2.7 (月)

登校初日

ホームステイでの朝食の時間は8:15と昨日に決めていた。朝食が済んで、8:50に家を出た。歩いて15分、9:05に学校着。幸いなことに、この学校には日本人のミセスの職員がいる。早速、探し出してあいさつ。

見回してみると結構日本人らしき若い女性生徒らしき人がいる。昨日会った若い日本人女性やその知り合いもいて、4-5人位いるか。中国人や韓国人もいると思うが、はっきりとは見分けが付かない。なんとなくわかるが。

夏の一番多いときは、全体で250人くらい生徒がいるとパンフレットに書いてあったが、今はそんなにいないようだ。100人くらい???

中に、僕と同じくらいの日本人がいて、僕に声を掛けてくれた。その人は愛知県から来ている、僕より4歳年上で、ほぼ毎年この頃にスペインに短期留学していると言う。今回は5回目の短期留学とか。不安一杯の僕に、有り難いお声掛けでした。

学校の中庭PATIOで書類や本を渡され、一人づつ呼ばれて簡単な筆記テスト。能力に応じて適当なクラスに入れるためだ。さっぱりわからない。テストの解答をもって、一人づつ、面接。僕は会話の経験がないので、ちんぷんかんぷん。とりあえず「希望のクラスは?」と言うアンケートがあったので、6段階ある内の下から2番目にチェックを入れておいた。

日本では、まあそこそこ勉強しているので、これくらいが妥当と思ったし、面接の先生もそう思ったのか、11:00から始まった初めてのレッスンはそれくらいのクラスだったようだ。今日この学校へ初めてきた人だけのクラスではなく、前週からやっている人も一緒だった。

緊張しながらも、冷や汗交じりで何とか100分を終えたが、先生も感じていたのか、もうひとつ下のクラスでやった方がいい、と言う。明日からはひとつ下のクラス、つまり一番下の、全くの初心者クラスで勉強することになった。

特別個人レッスンは13:30 – 14:20。この時間まで朝からぶっ通しで、昼ごはんはそれからと言うことになる。個人レッスンはこちらのペースでやればよいので、少しは気が楽だ。とは言っても、最初のことだから、勝手がわからないし、緊張がないことはない。何とかやり終えた。

3時前に帰宅。ホームステイの家で昼食。昨日と同じような感じで、スープ、パン、おかず、サラダ。例によって女主人のスペイン語も聞かなくてはならないので、そちらにも集中しなければならない。何を食べたやら、味がどうやったやら、さっぱり思い出せない。
 (これを書いているのは12日。5日前のことなので、忘れてしまった。)

まだ、こちらの軽食レストラン・兼飲み屋・兼喫茶店である「バール」で食事をする勝手がわからないし、疲れてしまって出る気もしないので、腹が減ったが我慢して、夕食なしで寝てしまった。

シニア スペイン語 留学 ホームステイ


2011.2.6(日)

 いよいよ今日はホームステイが開始する日。人生初めての、留学・ホームステイがいよいよスタートする。ステイ先に入るのは13:00から14:00の間と約束している。

 遅れるわけに行かないので、昨日、学校とホームステイ先の家は確認しておいた。人口70万人くらいの小さな街で、学校も家も中心街にあり、ホテルから歩いていける距離にある。朝、ステイ先に入るまでに時間があるので、散歩でもしようと地図を片手にホテルを出た。
 2,3分も歩かないうちに自分がいる場所がわからなくなった。細い道があちこちの方向に縦横無尽に走っている。通りにはすべて名前がついているが、地図上でそれを探すのは至難の業だ。
100円硬貨の直径の長さが、およそ200m
まっすぐ走っている通りはほとんどない。人しか通れない道や、乗用車がやっと通れる道がほとんどで、遺跡、名所がたくさんある市街中心部は、バスが通れる道はほとんどないように思われた。

で、地図を広げて道の脇の石に座って思案に暮れていると、若い女性が声をかけてくれた。僕が韓国人でもなく,中国人でもなく、日本人と思ったのか。愛知県から来ている日本人の留学生だった。

こんな事もあるのでしょうか。今日の昼からホームステイが始まって、月曜日からスペイン語の短期留学が始まるのですと、僕のことをちょっと話したら、「トランペットを持ってきて、練習するおじさんって、ひょっとしたら?」「ホームステイ先って、画家の息子がいる一人住まいのおばさんの家?」

「そうなんです、それ、僕です」

彼女はホームステイ先のおばさんを良く知っていて、僕を楽しみに待っていてくれていること、僕が行く学校に彼女が前に行っていたことを話してくれた。今日の午前中は、少し離れた街、アリカンテから来る若い日本人留学生二人と一緒に、スペイン人が街を案内してくれることになっているので、良かったらいっしょにどうですか?と。

一にも二にもなく、あつかましく午前中一緒させていただくことにした。

さて、午後は、今日の一番のハイライト。ホテルに荷物を預けていたので、荷物を引き取っていよいよ、家に向かって出発! 距離としては十分歩けるところなのだが、重い荷物を引きずって、石畳の上を移動するのはちょっと無理。タクシーを呼んでもらった。

直線距離でわずか1km程のところをくねくねと曲がりながら、人を避けながら進む。とてもスピードを出せるような道ではない。すぐに着いた。自動車は、そう頻繁に通らないのでタクシーの音を聞きつけたのだろう、女主人が玄関に出てきてくれた。印象は?って? う~ん、おばさんです。上品な。こちらもおじさんですけど。

早速狭い階段を4階まで上がって、屋根裏部屋のようなところが、僕のこれから3週間すごすところ。およそ5畳くらい(2.3 x 3.6 = 8.3 ㎡)が僕の部屋、それに2畳ほどのトイレ・洗面・脱衣所と3畳ほどの廊下・物置が付いている。部屋にはキングサイズのベッドといすと机、絵や皿の飾り。部屋全体の造りは、いかにも何世紀も前の雰囲気が出る白壁と木のドアと木の窓。

 荷物を置いたら、14時。こちらでは、ちょうど昼ごはんの時間。女主人と二人で昼食が始まった。豆料理、米の入った料理、サラダ、ワイン、ビール付きの特別料理か。こちらがわかるとわかるまいと、機関銃のようにスペイン語でまくし立てる。時としてわかることもあるが、全くわからないことがほとんど。

主人を29年前に亡くした未亡人。大きなおとなしい3歳の犬が一匹。別のところに住む息子の一人が画家で、1階にある小さな店舗は彼の作品が売られていて、彼が毎日「通い」でここに来る。奥に作業場がありそこが彼の仕事場のようだ。

夜8時、僕のようにこの家にホームステイしている2?歳のスイス人女性と3人で夕食。スイス人女性はあと2週間でこの家を出ると言う。彼女はドイツ語、フランス語、英語を話し、スペイン語の勉強に来ているとはいえもう4年間も勉強しているとかで、僕には完璧としか思えない。女主人は英語が話せないので、彼女との英語の会話を通訳してもらう。

 かなり緊張しての、経験と会話で疲れはてて、明日の学校初登校に備えて、早めに就寝。

スペイン超特急“AVE”でセビリアへ

2011.2.5(土)

昨夜の深酒も後に残らず、やや体が重たい程度で、SEVILLA行きの鉄道ターミナル、ATOCHA駅にタクシーで向かった。

駅の構内は、日本のように人・人・人というようなことはなく、ゆったりとしている。空港をイメージした改札は、まず荷物のX線撮影のセキュリティーがあり、搭乗口のような切符のチェックカウンターがある。12:00発のスペイン鉄道自慢のAVEという超高速列車に乗り込んだ。



旅行シーズンではないためか、ガラガラにすいている。定刻とおりに発車。聞いていたとおり、揺れは少なく、騒音も日本の新幹線よりだいぶ小さいように感じた。約2時間30分でSEVILLAに到着。



ホテルは予約をしていなかったが、適当なところにタクシーで乗り付けた。オフシーズンなのに意外なことに満室で断られ、付近のホテルを紹介してもらった。狭いダブルベッド室で、食事なしで一泊45ユーロはちょっと高め。でも、部屋に張っていた料金表には60ユーロと書いてあった。

さあ、明日はいよいよ、ホームステイ先訪問だ。

日本食レストラン「どん底」

2011.2.4 (金) 午後

この日の午後、友人が働いていたという日本食レストランを訪ねていった。そこの料理長が僕の“友人の友人”というわけだ。

「どん底」はMADRID市内ではかなり評判の良い店で、客のほとんどは地元の人。旅のガイドブックにも載っている。寿司、幕の内、とんかつ定食などなど、職人が腕をふるって客に出す。海外で日本食を食べるとなると、たいてい財布の中身を気にしなければならないが、この店ではそういうことはない。

昼はその料理長の奥様にプラド美術館をガイドしていただいた。彼女はMADRIDでガイド兼通訳をしている。プロのガイドが僕一人のためにトレドの名品を丁寧に説明してくれる。この上ない贅沢だ。歴史・美術音痴の私相手に、さぞガイドのし甲斐がなかったことと、ここで改めてお詫びいたします。 

夜は夜で、舌のプロがシェリー酒の名店や、味の名店を何軒も案内していただいた。酒をたしなむようになって以来、初めて酒に足を取られる失態を演じてしまいました。おいしくて、楽しくて、うれしくて・・・・・

シェリー酒をたくさんいただく
翌日はもうMADRIDを離れる予定。

2011年2月6日日曜日

想い出のカサ・デ・カンポのユースホステル

2011.2.4(金)朝

カサ・デ・カンポというのは、マドリッドの中心から少し西に行ったところにある大きな公園で、その一角にユースホステルがあった。

若い日本人の旅行者のたまり場になっていて、常に30人とか40人いた。滞在の長い人が順番に「番長」に指名されていく。この制度を作ったのは1970年のことだそうだ。

MADRIDの観光情報、アフリカ・中近東・北中南米の各種情報がここに集まり、それを有効に役立てようということで、情報のまとめ役・発信役・管理役が仕事であった。

ちょうど40年前1971年の7月と8月、私はマドリッドのユースホステルで6週間すごした。長く滞在した結果、僕も第17代目の「番長」という大役を拝命した。ここらあたりの詳しいことは僕のホームページ、
http://homepage2.nifty.com/hirobon/
の中の「シベリア鉄道で初海外」1972年4月号 に書いている。

今回のスペイン留学にあたり、ぜひとも想い出深いこのユースホステルを訪ねてみたいと思ったわけだ。

ホテルを出て地下鉄に乗った。朝10時過ぎであまり込んでいなかった。若い男性が突然ギターとハーモニカを演奏し、歌を歌いだした。楽器はアンプにつながっていて、音と声がスピーカーから出てくる。結構上手だ。1曲歌い終わってカンパを集めて、次の車両に移っていった。


横に座っている人に聞いた。「こんなのは普通にあるんですか?」 歌・地下鉄の中・普通というスペイン語単語を並べただけですが。「よくあることだよ」との返事。それ以上話は進まない。向こうからは何も言わないし、こちらからも、スペイン語の単語が出てこない。

地下鉄LAGO駅に着いた。40年前の記憶がない。
 
LAGO駅 プラットホーム

LAGO駅 駅舎
                  
駅を降りても、右も左もわからない。30分近くあたりをうろうろして、元に戻ってきた。今度は反対側に行ってみた。案内板を見つけたのでユースホステルを探したら、あったあった。



朝の散歩をする人やジョギングをする人を時折見かけるだけだ。大きな森のような公園の中の静かな道を、僕の記憶とおり、駅から15分ほど歩いたところに、それはあった。



今はMADRID市が管理しているようだ。敷地の中に入っていった。なんと僕が40年前に過ごしたあの建物とほとんど変わっていないところに、あの配置とおりに建物はあった。


掃除をしている女性に声をかけて見た。「昔と同じですね。建物は作り直していないのですか?」「むかしのままの建物です。少しきれいにしたり、中を変更したりしただけです」(と、言ったように聞こえた)

実際、夜空の下でコンパをやった一角が、記憶している位置にそのままあった。

事務所に行って、ちょっと聞いて見よう。

日本人は泊まっていますか?
今日は一人もいません。最近は、あまり日本人は来ないです。
    40年前の記録がありますか?
わかりません。
    写真をとってもいいですか?
雑誌や本で出版するのでなければいいですよ。
    インターネットの個人のサイトで使いたいのです。
それならOKです。

番長室があったと思われる入り口から入って見た。もちろん昔とはまったく様子が異なっていた。昔は入り口から入るとすぐに番長のベッドがあり、でかでかと日の丸が飾られていたが、今はそれもない。


私の見たところは、2段ベッドが二つの4人部屋2部屋が、トイレ・シャワー・洗面室をはさんで並んで配置されていた。4人づつが共同で使うようになっている。清潔な部屋だ。


全てが懐かしく、あたりを1時間近く歩き回って、満足して、そして、もと来た道をLAGO駅に向かった。

スペイン行き 出発


2011.2.3(木)

前夜は、深夜2時までかかって荷造り完了。

荷物は4つ、
スーツケース                      19    kg
機内持ち込みリュックサック  4.5 kg
トランペット(機内持ち込み) 3.5 kg
ショルダーバッグ       0.5 kg



預けるスーツケースは20kgまで、機内持ち込みは8kgまでとルフトハンザ航空では決めている。ほとんどピッタリだ。大阪キタにあるルフトハンザ事務所に出向いて、個数と重量制限を確認しておいた。

エコノミー、ヨーロッパ行き。
預ける荷物は個、20kgまで。重量制限は厳格に適用されるかも、と言われていた。
機内持ち込みも1個、8kgまで。重量を計量されることはないので、まあ適当にとのこと。

トランペットくらいの小さな楽器は機内持ち込みOK。通常の機内持ち込み荷物とは別扱いで考えてくれるそうだ。、特にヨーロッパ圏内は芸術文化を大切にする気風があるので、制限については日本よりも鷹揚、と説明された。もちろん、小さな飛行機の場合で頭上の荷物棚に入らないようなときは、別問題です。

さて、持っていく物についてはチェックリストでチェックも済み完璧、と思っていたのが思わぬ不覚。語学留学に行くというのに辞書以外の参考書をすべて忘れてきてしまったことに、関空に向かう電車「はるか」の中で気づいた。

仕方なく、関空内の書店で1冊買い求めたが、あまり良いのがなく、チェック漏れを反省。

この旅行のために、出発前の1週間ほど前にノートパソコンを買った。家でSKYPE(ネット電話)のテストをしておいたが、とりあえず、関空のVIP待合ラウンジでは成功した。



定刻から5分遅れの11:20、関空からフランクフルトに向けルフトハンザ航空で出発。

水平飛行に入ったので、飛行機の中でパソコン使用の初体験。ブログの原稿を書いてみることにした。マウスも動く。もちろん、ネットはつながらない。と、そのとき、ドイツ人の女性アテンダントが、僕のマウスを見て、「No, No. マウスはダメですよ。無線マウスはダメです」と。コード式マウスはOKだが、ワイヤレスマウスはダメだそうだ。

はい、わかりました。スミマセン。パソコンのLANのスイッチも切らなければいけないのかな。

機内誌に目を通して見た。全112頁の内日本語のページは1/2ページだけ。大半の乗客が日本人の、日本発のフライトにしてはおそまつではないかな? 機内アナウンスは独、英、日の順でしてくれるのだが。

昼食。ナイフ、フォーク、スプーン一式。日本人乗客が多いんだから、箸も付けといてよ、と思いました。食事が終わってふとプレートの向こうを見ると、箸が一膳のっているではないか。で、そのときまた思いました。「この箸は使われないでゴミ箱行きか。資源の無駄使いだな」「欲しい、といった人だけに出せばよいのに」なんて。

「僕って勝手なんだなぁ」と、猛省。

大阪からフランクフルトまで12時間半ばかり。そしてマドリッドまでさらに2時間半。日本を出てから着くまで17時間余。結構遠いです。

マドリッドに着きました。20時30分。地下鉄で、予約していたホテルに向かいました。





2011年2月2日水曜日

海外旅行で医療費1,300万円

 「友達の友達はアルカイダ」ではないが、これは知人の知人の話。

 ある南米の国で、その知人である学生が交通事故にあった。骨折して入院したが、手当が悪く悪化、緊急帰国が必要になった。重篤な容態の為、飛行機のチャーターが必要になり、加えて、日本から出迎えの医師と看護師、現地から付き添いの医師と看護師など、総費用1,300万円。

 飛行機のチャーターなどと言う大層なことでなくても、座席に座れず寝たままで帰国、ということになれば一般座席9人分の費用がかかる。8人分はベッドにするスペース、あと1人分は酸素吸入などの医療機器を置くスペース分。

 もちろん、この9席分は「格安切符で」というわけにはいかない。ノーマルチケットの9人分である。例えば、アメリカ・ロスアンゼルスと大阪間なら、¥320,900 9 =¥2,888,100となる。

 搭載する医療機器も航空機搭載用の特殊なものになり高額費用が必要。現地医療費ももちろん必要。この場合でも相当なお金が必要となる。

 最近はやっているカード付帯の海外旅行保険だけでは、「かなり安心」というレベルではないようだ。自分が払えなければ、留守宅の家族、親などが払わねばならなくなる。

 というわけで、明日出発に控えた私は海外旅行保険をかけることにした。



 海外で死んでしまったら、灰になってしまうので「帰国費」もそう高くつかないが、治療・救援費となると大変。
 
 治療・救援費用で「無制限」保障というのは心強い。今のところこのパンフレットの会社しかないとか。保険料を払うときは「高くつくなぁ」と思うんだけど。

 無事帰国した時に、払って損した、と思えるのが一番。